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zoom RSS 「KY」

<<   作成日時 : 2009/07/17 21:52   >>

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 「KY」ということばが脚光をあびるようになって久しい。はじめは「空気が読めない」という意味で使われたこの二文字は、「漢字が読めない」、「経済に弱い」といった意味にも使われるようになった。最近では某スーパーが、CMで「価格安く」というコピーに利用している。
 私は、この「KY」の二文字が目にするたびに、二ヶ月程前の新聞に寄稿されていた、ある大学教授の文章を思いだしています。
 それは、「最近の若い世代は「KY(空気が読めない)」と言われることを極端に恐れていることが気になる」というものでした。若者に覇気がなくなったと言われるが、その根底にはこの思い(恐れ)が働いているのではないか。それが行動や言動の基準になれば精神的自立の妨げとなる。そればかりか、互いに異なる意見を語り合わないなら成長する道は閉ざされる。孤立して苦しむかもしれないが、自分の意見をはっきりと言える若者となってほしいという内容でした。

 この記事を思い出しながら、私は子どもや若いうちは、少々「KY(空気が読めない)」ぐらいでいいんだ。自分の興味あることに夢中になったり、自分の考えをどんどん言うぐらいでいいんだと、ホッとした気持ちになります。
 というのも、私は小学生の頃、たぶんかなり「KY」だったのではないかと思っているからです。学校の授業中、周りのことなど意にも介さない子どもでした。授業中にふざけたり、騒いだりするというのではないのですが、授業で学んでいる内容に夢中になると、私はまるで自分と先生だけで授業をしているかのように勝手に質問したり、意見や感想をいう子どもでした(科目の内容上、理科や社会科で、かなり「KY」だったと思います)。先生は授業がやりくにかったのではないかと思います。(先生、ごめんなさい。)
 親はそんな私を、地元の公立校の中学に進んで大丈夫か?と密かに心配したとか、しなかったとか・・・。


 さて、先程の大学教授は文章(記事)の最後に、「若者のこんな姿の背景には、今の社会が共通する善悪の基準を持てなくなっていることがあるのでしょう。」と書いておられました。
 私は「共通する善悪の基準」よりも、そもそも、一人一人が何が良いことで、何が悪いことかという判断をくだせなくなっているのではないかと思います。一人一人に判断がくだせなければ、共通の善悪の基準など形成しようがありません。
 現代は情報が氾濫し、多様な価値観の溢れている時代です。そんな現代の世の大海原を突き進むには、一人一人の内に確かな判断基準や価値観がなければならないのではないでしょうか。そうでなければ人の意見や顔色や組織の判断であちらこちらへと押し流され、漂うだけで人生は終わってしまいます。

 そういう意味では、クリスチャンはこの社会にあって、「KY」でいいのではないかと思います。「寛容で優しく、波を立てず」というのでなく、神の前に何が良いことで、何が良くないことかをハッキリともち、自分の意見をしっかり言える「良きKY」、それこそが「地の塩、世の光」ということではないか。
「KY」の二文字をめぐる断想です。

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