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zoom RSS 余震があるたびに

<<   作成日時 : 2011/04/06 21:13   >>

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3月11日の大地震からもうすぐ4週間、一ヶ月になります。

稲城市では、乳幼児に対する水道水の摂取制限が出たのは一度だけでした。
また、午後にはスーパーの棚が空っぽということも、もうさすがになくなりました。

余震も以前は1日に数回ありました。
でも、このところ1日1回のペース、あるいは余震がない日もあります。
たとえ余震があっても速報にもならない程度の揺れです。
今の揺れは大きかったなと感じても震度1ぐらいでしょうか・・・。

でも、余震は忘れた頃にやってきます。
その度に、私たちの住むこの日本はいくつものプレートがせめぎ合う不安定な土台の上にあることを意識させられます。
日本が地震大国で、そういう危うい面があることは、知識としては知っていました。
でも今まであまり意識してこなかったように思います。
でもそれは意識してこなかっただけで、そういう危うさの上にあることは、昔から変わらなかったわけです。

このことは私たちの人生にも当てはまることなのかもしれません。
私たちは毎日の繰り返しが当たり前のように続くと考えて生きています。
もちろん日々の営みの中では、それなりにいろいろな変化があります。
また、病気や事故などのトラブルも想定して備えもするでしょう。

しかし、私たちの人生は、必ずしも想定内の出来事ばかりではありません。
想定外の出来事がいつどこで起きてもおかしくないのです。
私たちの人生も、せめぎ合うプレートの上に立つような不安定の上に成り立っています。
私たちはそのことを忘れて、毎日が同じように繰り返されると信じて生きているに過ぎません。

ヨーロッパの修道院では、『メメントモリ』という言葉が日常のあいさつに使われているそうです。
ラテン語で、『死を覚えよ』という意味です。
私たち人間はいつ何時、どこで命がついえてもおかしくない存在だということを忘れないように、
「死を覚えよ」というあいさつが交わされます。

私たちは修道院で暮らす人たちのように、そうまではしなかったとしても、
いつ何が起きてもおかしくない、そういう人生を歩んでいるのだと、
自分の心に言い聞かせることは必要ではないでしょうか。

余震があるたびに、この世界は不安定な上に成り立っていることを覚えます。
でも、それと同時に、大自然の大きな力の前では無力な者に過ぎないこと覚えつつ、
神に生かされて今あることを心に留めようと思います。

また、そういう意味では、教会で一週間に一度、日曜日に礼拝をささげることはとても大事なことだと思います。
教会では礼拝を通して、神の前に自分が何ものであるかを心に留めます。
自分が神に生かされて今ある存在であることを覚えます。

神の造られた大自然の恵みとその力の中で、自分が小さな存在であるにすぎないことを自覚します。
また、生かされて今あるという事実に、謙虚になり、謙遜になります。
いつ死んでもおかしくない存在として、自分の体も、健康も、
今まで人生で築いてきた一つ一つも、
また、これからの残りの人生も、
家庭も、伴侶も、子どもも、仕事も、財産も、才能も、能力も、
すべては、神から与えて頂いたものだということを受けとめ直します。

こう書くと、そんな馬鹿なことはあるか。
俺のものは、すべて自分の努力で手にしたもの、
汗水流して働いて手にしたものだという人もいるでしょう。

もちろん、そうした一面もありますが、
でも、聖書にはこのことをわかりやすく説明している「ぶどう園のたとえ」というのがあります。
私たちは主人(神)から農園(世界やそれぞれの人生)を任されて働く農夫のようなものです。
私たちが手にしているすべてのものは、主人から託され、預けられているにすぎません。
たとえ汗水流して働き、たくさんの収穫を手にしたとしても、
その真の所有者は農園を自分に託してくれた主人です。
私たちは自分の体や才能、能力、努力でさまざまなものを手に入れます。
でもそれは私たちにいのちを与え、体や才能や能力を与えてくださった神の恵みがあってのことです。
けれども、農園を託された農夫たちは、主人が収穫の分け前をもらおうと遣わした使者を三度も追い返し、
ついには、遣わされてやってきた主人の息子を殺してしまいます。
その理由は、「跡取りを殺せば、ぶどう園は自分たちのものになるだろう」というものでした。
この息子は神の御子、イエス・キリストをあらわしています。

現代は神なき時代、神殺しの時代だと言われます。
価値観が多様化、個人化した中で、人はそれぞれ自分の好き勝手に、
思うままに生きている時代だと言えます。
良心も、道徳心も、宗教心も失われてしまっています。
それらは自分が思うままに生きるには邪魔だと信じられています。

しかし、農園の主人は農夫たちに収穫の全部をよこせと言っているわけではありません。
ただその一部、分け前を要求なさっています。
同じように、神は私たちの人生から分け前を求めておられます。
言い換えれば、私たちは人生において、神に収穫の一部を収めなければならないのです。

私たちの収める収穫の第一は、感謝です。
私たちは自分の人生、自分の才能、自分の体、自分の、自分のといって、
自分の好き勝手に生きるのではなく、神に与えられているものを感謝し、謙虚にならなければなりません。

第二は、良いことをすることです。
神の前に正しく生き、神に喜んでいただくことを人生において果たさなければなりません。
それは隣人への愛であったり、人や世の中のために役立つことであったり、いろいろでしょう。
人生において、自分のしたいように、自分の好き勝手に生きるだけというのではなくて、
使い古された言い方かもしれませんが、世のため、人のためにも、
自分の能力や力、人生を使いなさいということです。それが神の求める分け前であり、
神が喜んでくださることを果たしていくということです。

私たちは神によって、そのように生きる時に、幸福を感ずるように創られています。
その証拠に、自分のやりたいように、また、好き勝手に生きて、それで幸せだと感じる人はいません。
もしそれで人が本当に幸福なら、人は誰かを欺き、裏切り、蹴落としてでも
自分の思うままに生きればいいということになります。
でもそんな生き方をして、幸せだと感じる人はいません。
かえって虚しさを感じるでしょうし、心が重苦しいまま生きていくことになるものです。

でも、自分が人のために役立ったり、社会に役立ったりしたら、やりがいや幸せを感じます。
誰かを愛したり、また、優しくしたりすれば、愛さたり、優しくされたりするのと同じほど幸せを感じます。
自分が損をすることであっても、それが子どものため、家族のために払う犠牲であるなら、人は幸せを感じます。

もちろん、必ずしもそうではない人もいます。
自分さえよければいいと考える人も、
家族のためであっても自分が犠牲になることにガマンならない人もいるでしょう。
しかし、それは人間の自己中心性のゆえであって(聖書は、この自己中心性を「罪」と言っています)、
自己中心に生きて幸せだというわけではないのです。

随分、話が広がってしまいました。
早く余震がなくなればと思いますが、ただビクビクするだけでなく、
自分の人生や生き方を見直す機会にできればと思います。

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